上手くいかない時は、原点に戻ってみよう(10代の頃からさかのぼってみる)

世の中は、なかなか思うようには進まない。
私の会社もまだ1年経っていないがなかなか思うようには進まない。
私は今まで、こういう時は原点に戻ることでその後の答えを出してきた。その答えが正しかったのか間違っていたのかは分からないが、50才の今日まで無事に、少しずつ前進しながら過ごせている。
さあ、この会社「屋上と緑と」をはじめた原点に戻ってみよう。
原点に戻るには、戻り過ぎかもしれないが一度、10代の頃からさかのぼってみよう。


今につながる将来の事を考えるきっかけがあったのは、高校1年の頃。
私の好奇心を満たす情報を得ていたものは、書店に並ぶ雑誌だった。
今ほど雑誌の数も多くなかったから、男性誌女性誌もかまわず立ち読みしていた。
お金を出して買った初めての情報誌は、POPEYEの創刊号。
POPEYEはその後、月刊誌になっても買い続けた。
アメリカの若者たちの情報は毎号新鮮だったが、表紙や誌面のイラスト、そして雑誌内の日産スカイラインソニーのジルバップなどの広告にも興味をもった。
これから先、楽しいことがいっぱいやってくる気分をもらった。
小学校からずっとやっていたサッカーとバンドのドラムの練習より、もっとワクワクするものを見つけてしまったのだ。
そして、こういう仕事に就こうと思うようになっていった。
私の仕事に対する原点は、この時の気持ち「人々にワクワクする夢を与えたい。日本をもっとカッコいいデザインで溢れさせたい。大きくなっても遊びを忘れない人で溢れる日本にしたい」という事だと今でも思っている。
でも、どうすれば広告の仕事に就けるのか。田舎の高校生には全く検討がつかなかった。
そんな時に書店で「宣伝会議」という本を見つけた。表紙が沢田研二ポートレート写真の号を
初めて買った。記事の内容は全て理解できなかったけれど、世の中は早いスピードでどんどん新しく変わっていくのが感じられた。「のんびりなんかしてられないな」と思ったことは今でも覚えている。そして、デザインの学校に行こうと決めてしまった。どうせ行くのだったら一番いいと言われているところに行こうと調べたら東京藝術大学が大学のランク表で高かったので、そこにしようと決めた。田舎の高校生は、その学校がどんな学校かも知らずに決めてしまった。そして、運が良い事にちょっと回り道はしたけれどその大学に入ってしまった。

大学に入ってから、「のんびりなんかしてられない」私は、1年の頃から授業より、実際に広告の仕事を早くやりたかったので作品を作ってはマガジンハウスなど出版社に売り込みに行っている。
そして、また運が良い事にポスターやCMやウィンドウディスプレイやギャラリーで取り扱ってもらえるなど、今思うと学生にしては大きな仕事をもらうことができた。
私の作品は、アートと呼ばれるような高尚さなんて全くなかったけれどそれで良かった。
高校時代に思った「人々にワクワクする夢を与えたい。日本をもっとカッコいいデザインで溢れさせたい。大きくなっても遊びを忘れない人で溢れる日本にしたい」という原点から外れていなければそれで良かった。

<大学卒業後のことは次に書こう>