私のデザインの源泉<私の里山「町内の山の草刈り”でぼけ”の記憶」>

私の生まれ育った地域では、地域の草刈りなど町内で行う共同奉仕作業を
“でぼけ”と呼んでいました。
その“でぼけ”で一番記憶に残っているのが、町内で所有している山の草刈り
です。私がこの山の草刈りに参加したのは中学1年の時でした。
"でぼけ”は、一家に一人の参加ですので、私は父に代わっての参加でした。
ここで、山の草刈りのコツや太い枝を鎌一振りで切り落とす方法などを自然に覚えて行きます。
昼時には、山での食事の仕方なども覚えます。

こうして、地域の大人の仲間に入って行き、父から子へと地域の慣習が引き継がれて行く事になります。

私のデザインの源泉<私の里山「松茸山の記憶」>

(私がまだ生まれる前の写真)
私が小さい頃、実家の地域では夏が終わると松茸山の入札がありました。
松茸が出るか出ないか、賭けのような入札ですが
この時期のイベントとして私の家は山の入札に参加していました。
いよいよ松茸収穫の時期をむかえると、落札した山にゴザを敷き
七輪を据えて、季節限定の「山の中の離れ座敷」を作り
松茸のすき焼きを提供します。
この山の中の座敷そのものもユニークですが
すき焼きの材料がなくなった時の調達の仕方がまたユニークでした。
この山は、家の裏庭から見えるところに位置していて、そろそろ材料が
無くなるかな、という頃に裏庭に出て山の方を見ます。すると、
山にいる人は白い旗と赤い旗を持っていて、肉が足りなくなった時は赤旗
野菜がなくなった時は白旗を振り、持ってきて欲しい食材を知らせます。
それを見て実家の店から山に食材を届ける。というシステムです。
現在なら、携帯電話で連絡するか山に発電機と冷蔵庫を持ち込めば事足りる
のでしょうが、白旗/赤旗でおこなう子供の遊びの延長みたいなやり方の
ほうが、なぜか大人っぽい楽しみ方に感じてしまいます。

私のデザインの源泉<私の里山「とにかく西に行こう!」という遊びの記憶>

小学生の時、私たちの遊び場はたいてい屋外になるわけですがその範囲は、
かくれんぼにしても鬼ごっこにしても町中がフィールドでした。
ある日、いつもの5〜6人が集まり何して遊ぼうかとなった時、
「今日は、とにかく西に行こう!」という話しになりました。
畑も横切る、田んぼも横切る、川も横切る。家と家の間の軒先を通り抜ける、他人の家の庭も横切る、他人の家の中も横切る(どの家も当時は鍵なんかかけていなかった)、塀を越える、、、
そうして隣町まで行き着いた時、さすがに顔も見た事の無い他人の家を通り抜けるわけにはいかなくなり、この冒険は終了しました。
当時の大人はこんな子供たちの"大冒険”を笑って見ていた。
今、そんな場所はあるのだろうか。
私の里山の記憶は、とてもオープンな場所だった

私のデザインの源泉<私の里山「お葬式の記憶」>

私の実家の地域では、20年ほど前にはまだ土葬が行われていました。
町内の誰かが亡くなると、隣組の5世帯が埋葬場所に棺桶を埋める穴を掘りに行きます。
お坊さんが以前の埋葬から時が経っている場所を指示し、そこに深さ2メートルほどの穴を掘るのですが、決められた敷地内でのローテーションですので昔埋葬された人の骨が出てきます。
子供の頃は、そんな話を聞くだけでも怖くてしかたなかったのですが高校生ぐらいになると、大人たちが掘っている穴から出てきた頭蓋骨を見て「これは、だれだれのところの婆さんだな。」などと話しながら、もう一度穴の脇に埋め直してあげたりするのを見ていると、怖いという気持ちではなく「ああ、あの婆さんか。」と、ちょっと懐かしいような気持ちになるようになりました。
現在は、火葬になりこのような経験をすることは出来なくなっていますが
今、里山というものを考えるときに、人と自然をきりはなして考えるのでは
なく、人も自然の一部なんだということを強く実感させられた私の里山
記憶の一つとなっています。

私の月の夜の空気感は、こんな感じです

私のデザインの源泉<私の里山「畑の記憶」>

私の実家には、野菜をつくる畑と茶畑がありました。
自宅から100メートルくらい離れたところにあり、家業の料理旅館で働く
人達が、昼間 時間のあいたとき、畑の手入れをしていました。
小学生頃の私の役目は、お菓子とお茶を入れた手さげ籠を、家から畑に
届ける事でした。
手提げ籠が到着するとみんな土手に座って一休みします。
畑に育ったイチゴとかキュウリなどもつまみ食いした記憶があります。
とてものどかで楽しい時間が流れていました。
現在、アウトドア用品で様々な物が販売され自然の中に楽しい場を提供して
くれますが、私にはあの時のお菓子とお茶が入った、一つの手さげ籠が作り出す畑の中の憩いの場に、今も惹かれてしまいます。

私のデザインの源泉<私の里山「庭の記憶」>

(2歳の頃の私)
実家は、滋賀県甲賀郡(現 甲賀市)で、創業弘化2年(1845年)の
料理旅館でした。
そのため家には池を設けたけっこう広い庭があり、
私は、その庭の水やりが小さい頃好きでした。
水やりで苔の増やし方を知った時などは面白くて仕方ありませんでした。
剪定は庭師の方にお願いするのですが見よう見まねでツツジを刈り込むのも
楽しかった想い出です。
この庭には店の料理に使われる植物がたくさんありました。
煮物に添える山椒、天ぷらを飾る松の葉、紅葉の葉、シソ、クマ笹、桜。
春には,家の食卓にあがる土筆、ふきのとうも芽を出しました。
池の水は地下水で、店の食材にするにはサイズが小さかったりする鯉、うなぎ、鮎が泳いでおり、小さい頃はそこで釣りの仕掛けを試して魚がえさを
食べる時のウキの動きなどを観察したりしていました。
その頃は、庭から食材を採ったり、庭の手入れをしたり釣りをして遊んだり
することは、ごくあたりまえの事のように思っていましたが、今となっては
家の中まで里山が入り込んだ暮らしをしていた事に気づかされます。
この庭の記憶は、私にとっての「里山を感じる暮らし」の一つの姿です。

こころが落ち着く植物のひとつ、苔をモチーフにした作品

商品の値段と品質

世の中のすべての商品の値段がどんどん安くなっていく。
それにともない、品質は確実に落ちている。

先日、京都の金物商品を作る老舗の商品が、以前購入した物と同じなのになぜか作りが“あまい”のです。
微妙な違いなのだが、商品が発するクオリティが何か違うのです。
本店に問い合わせたところ、「百貨店に卸しているものと本店で販売しているものとでは製造場所が異なる。本店のものは本店の職人が作り、百貨店の物は別の場所で作っている。」という話しをしてもらえました。
理由は、値付けの関係でしかたないと言うことでした。
こうやって、いい物が世の中から姿を消していくのだなと思うと、世の中は進歩どころか後退しているように感じます。
前述の京都の店の人が「・・同じように作るようにしているのですが、やはり違って見えますか、、」と、寂しそうに話されていました。
こういうことを、有名なブランド品でさえ感じます。
「物の値段には、それ相当の理由がある」ということをちゃんと見極められる目をみんなが持たないと、世界中のいい物はどんどん無くなってしまいます。

「高いものは、いい物」では無いですよ。
「いい物は、高い」「おいしい物は、高い」です。
「安い物は、それなりに良く、それなりにおいしい」のです。
このことは、昔からそして今もこれからも絶対かわらないこと。変わってはならないことです。